陪審裁判の記録 (13世紀)
■ The Willingham Fire Case (1202)
LANGBEIN, LERNER & SMITH, HISTORY OF THE COMMON LAW 48-49 (2009).
ウィリンガムのギルバートは、ジョフリーの息子ギルバートが、国王の平和に反し、害意をもって彼の家に火をつけ、燃やしてしまったと訴えた。火が消えた後、彼は外に出て叫喚告知(hue and cry)を行った。それにより近所の人々とウィリンガム村に住む人々が集まってきた。彼は被告ギルバートが逃走していることを人々に見せ、人々は被告の後を追った。これが彼が立証しようとしていることである。
被告ギルバートはそのすべてを一言一句否定した。
そこで尋ねられたウィリンガムの村人たちは、被告ギルバートが逃走しているところを見ていないし、原告がそれを見せたわけでもないと述べた。同様に陪審員たちも正当な理由よりも憎しみから原告が被告を訴えたのではないかと思っていると述べた。したがって、本件私訴(appeal)は無効であり、原告は慈悲のままに置かれる(in mercy)。訳注: 裁判権者の裁量による罰金、憐憫罰(amercement)が科された。
■ de la Hethe's Case (1221), id., at 60.
トマス・デラヘザは盗犯(theft)その他の罪および犯人蔵匿罪での公訴(indictment)により逮捕され、彼は出頭して、裁判を受けるつもりはないと言った。訳注: 裁判で答弁をするのを拒否した者に対しては、1275年の法律により一時的に堅固な監獄(prison forte et dure)に収容することが認められた。これが後に「苛酷な苦痛(peine forte et dure)」と読み替えられ、被告人に(陪審裁判を受けさせるための)拷問が加えられることになった。ただし、1772年に廃止された。陪審員たちは宣誓により、強盗犯として知られ、後にカムデンで縛り首になったハウ・ゴリクトリーをかくまったのではないかと疑っていると述べ、また本件その他の盗犯についても彼のことを疑っていると述べた。本件のために選ばれた24名の騎士も12名の陪審員と同様に、デラヘザは羊や耕作用家畜の強盗犯であると述べた。したがって、デラヘザを縛り首にすべきである。
■ Wiltshire Eyre Roll Excerpts: The Hundred of Chesgelg Comes by Twelve (1249), id., at 69.
24. カーネルのロジャーの息子ジョフリーが、荷車にひかれ、翌日の夜に死亡した。疑われた者は誰もいない。判決: 偶発事故(misadventure)。4頭の雄牛のついた荷車の価値は35シリング6ペンスである。訳注: 死亡事故の原因となった贖罪物(deodand)としてその物が国王に没収されるか、またはその物の価値相当額の罰金が科せられる。
ジョフリーの父、カーネルのロジャーは荷車を動かしていたリチャード・ベンを訴えた。彼はすぐにリチャードの後を追い、リチャードは即座に逃げ出したのである。陪審員たちは、ジョフリーが荷車にひかれたのは重罪(felony)によるものではなく偶発事故によるものであると述べた。この点について議論を行うべきである。